2018年6月22日 6月度 例会「ニューヨークのレストランビジネス」

- ベトナム難民から始まった各国難民の雇用について -

 

講師:松永善治氏(当会会員)

 

松永善治氏は、1974年大学卒業後生れ育った福岡から直接ニューヨークの日本食レストランに就職し、長年そのレストランの経営に携わりこの度日本に帰国した。

40年以上に亘るレストラン経営を通して見たニューヨーク事情、世界事情とその遷り変りをお話し頂いた。

松永さんは、当時ニューヨークで高級和食のレストランとして有名な「レストラン日本」でマネージャー候補生として働き始めた。

当時の日本食レストランの現地雇用の人材は、有吉佐和子の小説「非色」に登場する戦争花嫁の人達、日本人留学生、芸術家、日本人旅行者(当時ニューヨークに沢山いたバックパッカー)等のアルバイトに依存していた。しかし、学生の労働許可証取得への引締めやソーシャルセキュリティー番号の問題などで日本人の雇用が難しくなり、人材の確保に苦労するようになった。アメリカ人は日本人レストランの下働き等の仕事には来てくれない。そこで、いわゆるアメリカ準州のプエルトリコ、カリブ海諸国、中南米各国からの移民などスペイン語しか喋れない人達を雇うことになった。その中の一人がLGBT差別から殺人事件を起こし、最高裁の証人として喚問されるということも経験した。ウーマンリブ運動が出始めた時代であった。

松永さんは当初は英語もままならず、趣味と実益を兼ねて毎晩ディスコやバーに通い、アメリカ人から肌で英語を習った。

当時のニューヨークの日本人は今のように娯楽に恵まれず、情報も少なかった。楽しみといえば、日本と比べて格安の週末ゴルフと日本人経営のピアノバーぐらいであった。中にはチャイナタウンにある違法カジノに通ったり、マリファナ、ドラッグに溺れる人もいた。

「レストラン日本」は、オーナーの倉岡伸欣氏が、慶応大学卒業後 交換留学生としてオハイオ州立大学大学院に留学 修了後1963年にニューヨーク・マンハッタンに米国最初の寿司バーを備えた本格的な和食レストランとしてオープン。

翌64年にNYタイムズ紙に日本食レストランとして初めて三ツ星の評価を受け、1966年にはJAL国際線機内食納入開始、1975年昭和天皇皇后両陛下訪米時の日本総領事公邸での公式晩餐会の料理、また中曽根首相から安倍首相まで日本の歴代首相が訪米時には必ず立ち寄るなど(橋本龍太郎首相は倉岡オーナーの慶大剣道部の後輩)、着実に名実ともにニューヨークで有名老舗レストランとしての地位を不動のものにしていった。

また、現在の天皇皇后両陛下、皇太子殿下のフライトをはじめ歴代総理の米国東海岸発の政府専用機の機内食を担当し、倉岡オーナーは2006年に日本食の海外普及の功績により農林大臣賞、2009年には旭日小綬章を受賞した。

 

また、新たな事業開発にも熱心に取組み、86年には本格的な手打ち二八蕎麦をアメリカ人に紹介するため北海道産の玄そば栽培をカナダの自社農園で開始し、レストラン「そば日本」を開店(99年)したり、スコットランド政府の依頼により スコットランド産サーモンを使った日本人に合う減塩スモークサーモンを開発し、日本に輸出するなどした。

89年には、米国FDAとの5年間に亘る交渉により、下関産虎フグの輸入許可を全米で初めて取得し、ふぐメニューとして出し始めた。これは、全米、英国のメディアなどで取り上げられ大きな話題となった。

 

そのほか、「レストラン日本」は、セレブや有名人にも人気で、古くはユル・ブリンナー、ジョン・レノン、JFKファミリー、ドミンゴ、マイケル・ジャクソン、森英恵、小澤征爾、伊達公子、最近では松井秀喜、ブルムバーグ元NY市長、ジャレッド・クシュナー(Jared Kushner、トランプ大統領の娘婿)などが常連であった(ある)。

2001年には、全米でヒットしたTVドラマ「Sex & the City」の撮影が「そば日本」で行われ、松永さんはじめ従業員も多数出演した。

一方、全米オープンテニスや全英オープン(ウィンブルドン)での日本選手への炊き出しなど社会的貢献にも取り組み、そのことが切っ掛けで、USオープンテニス開催時には、日本人選手はもとよりシャラポワ、ナダル、ジョコビッチはじめ世界の有名選手が来店するようになった。

 

この様に松永さんは色々な社会貢献活動にも携わってきたが、その最たるものが今日の講演の副題でもある「難民雇用」である。

 

難民の雇用は、IRC(International Refugee Center国際難民センター)からの依頼もあり、80年代初めからのベトナム難民から始まった。

ベトナム正月料理事件やピストル強盗とベトナム難民との格闘事件などもあったが、難民雇用の貢献が評価され、1998年にはIRCからLiberty Awardを受賞した。

その後、カンボジアからポルポト難民、アフリカ、カリブ海からの難民と続き、79年のソ連のアフガン侵攻による難民も雇用した。

その間、宗教の問題、難民間の習慣の違い、争い、言葉の問題など、数々の問題に遭遇した。特にイスラム教のお祈りの時間と場所の対応には苦労した。

90年代前半からは、ロシア、ルーマニア(チャウチェシク政権崩壊)、ポーランドはじめ共産圏からの難民も受け入れたが、いわゆるヨーロッパからの難民はBOP(bottom of pyramid)からスタートの理解が低く、短期間で希望を成就できるという過度の期待を米国に抱き、長く続かず1~2か月で辞めていく者が多かった。

民族浄化の犠牲となったボスニアヘルツェゴビナ、コソボ、アルバニアからの難民も受け入れたが、彼らは高学歴の人が多く、4年間バーテンダーをしながら大学院に通い、今は大学で教鞭をとっている者や、その後独立してレストランを開く者もいた。その中には最近NHKBSの「世界 入りにくい居酒屋」に採り上げられた者もいる。なお、彼らの宗教はイスラム教であるが、15世紀以前にオスマントルコ帝国によりキリスト教から改宗させられた歴史を持つため、マイルドなイスラム教徒ではあったが、イスラム教の習慣の対応に戸惑うことは少なからずあった。

中国からの移民も89年の天安門事件以降多く雇用したが、同じ中国でも出身地の違いによる考え方の違いや共産主義の考え方の対応には苦労した。アジアではそのほか、ミャンマー、チベットからの難民も受け入れた。それぞれの国柄による性格や考え方は千差万別であった。

 

長年様々な国から難民を受け入れ、雇用し、色々な出来事に遭遇し、チャレンヂに立ち向かい、誰からも高く評価される一流のレストラン経営に携わってきた松永さんは、次のように語り、講演を締め括られた。

米国の移民を受け容れる懐の深さを身をもって体験した経験から、これからの日本の移民の受け入れは、10-20年先の視野を持ち、日本への移住を希望する外国人の、教育(特に彼らの子弟の教育援助制度)・医療・福祉(外国人生活保護支給の問題など)の制度充実に取組み、特にBOP(bottom of pyramid)からのスタートの覚悟を持った移民を積極的に受け入れることによって、米国のようなミックスサラダ型(様々な民族や人種がそれぞれの特徴を活かした社会)ではなく、メルティングポット型(日本人と移民が同化することによる一体化)が日本の社会には適合するのではないか、と。

(文責 田中資長)